繊細なまま、おばさんになっても良いじゃないか
弱肉強食のこの時代、繊細なまま生きるのって、なかなか難儀ですよね。
部屋を片付けたいと切に願い、ミニマルライフを目指し始めて思ったことは、
「『何もない部屋を目指す』思考に行き着く人というのは、繊細な人が大多数だろう」
ということです。
ものに溢れた部屋で楽しく暮らせるならば、それで良いと思うんです。自分の神経がすり減らないのであれば、ぜんぜん問題ない。
でも、色んなことに立ち止まり、考え、神経をすり減らす人は、その音のない騒音みたいな、雑然とした環境に耐え難くなる日が、遅かれ早かれやって来るんだと思います。
子供を持って、年齢を重ねれば、もっとドンと構えた人間になれるのかなと思っていました。肝っ玉お母さんに憧れていました。
さすがに細かいことは気にしてられない今の生活で鍛えられた部分もあり、あっさり忘れっぽくなったり、店員さんにお釣りの間違えを指摘できるくらいには成長しましたが、それでもまだ、他人には思ったことの半分も言わない生活をしています。初めて会う相手には、距離を取ってると思われることも多く、何か物足りない人だとジャッジされているかもしれません。
カウンターの寿司屋で、大将にネタを直接注文することも、未だにできません(夫に頼みます)。よくわかりませんが、大将的に非常識なネタを注文して、「このやろう!」とか怒られたくないからです(妄想です)。
洒脱な会話などもってのほか。だから寿司屋は、回転寿司が一番です。
でも、最近ある意味開き直ってます。
昔は、こんな風に生きてると、つまらない人生なんだろうと半分諦めていました。
でも、この年まで生きてきて、あまりそんなことないように思いました。
人に流されなければ、いいなりにならないよう気をつければ、面倒くさいヤツの方向に転がらなければ(これが難しい)、この生き方も全然ありです。
繊細なままおばさんになっても構わないのです。
むしろ、繊細さを残らせていくことの方が価値あることかもしれない、と思い始めました。
少なくとも私は、繊細さのある人に一目置きます。一言もアピールせずとも見ている人は見ています。
ただ、繊細さはコントロールが難しいもので、あまり自分の調子が良くない時には悪影響を及ぼしたり、自分に追い打ちをかけてくることもあります。
そういうアップダウンを極力避けるために、誰が始めたか知りませんがなるべく外部環境をフラットに整える「シンプルライフ」「ミニマルライフ」なるものが必要とされたのではと思います。
しかし。
この説を夫にぶったところ、
「自分のことを繊細だと思っている人間はたちが悪い」
と言われました。
あまり面倒くさい方に転がらないように気をつけたいと思います。